タイトル飛び立つ君の背を見上げる
巻数13巻目
発売日2021年2月27日
作者武田綾乃
出版社レーベル宝島社・宝島社文庫

収録内容

  • プロローグ
  • 第一話 傘木希美はツキがない。
  • 第二話 鎧塚みぞれは視野が狭い。
  • 第三話 吉川優子は天邪鬼。
  • エピローグ
  • 記憶のイルミネーション

10位

夏紀はきっと空を飛べない。
中川夏紀

自分が凡人だということに、夏紀はうすうす気づいている。天才にもなれず、変人にもなりきれず、特別に憧れを抱きながらも普通の生き方を選んでしまう。

中川夏紀

漠然とした将来への不安は、結局はそれなのだ。こうなりたくないと思っていた大人に、気づけば自分から近づいている。

中川夏紀

もしも自分の背中から翼が生えたって、夏紀はきっと空を飛べない。屋上の柵にもたれかかって、脚を伸ばして、それで終わりだ。

9位

みんなは恋人、欲しいの?
中川夏紀

ぶっちゃけさ、お試しでもいいから付き合ってみたらよかったのに

吉川優子

べつに、一緒にいたいと思わない人に時間を割きたくないだけ

中川夏紀

うわ

傘木希美

うわ

鎧塚みぞれ

みんなは恋人、欲しいの?

傘木希美

逆に、みぞれは欲しくないの?

鎧塚みぞれ

想像ができない

傘木希美

あー

吉川優子

みぞれに彼氏ができたら寝込むかも

8位

みぞれのこと、ちゃんと好きやのにね。
傘木希美

嫉妬してるんやろうな

傘木希美

夏紀にだけは言うけどさ、うち、みぞれの前やと悪いやつになっちゃう

傘木希美

八つ当たりしたくなっちゃう自分が嫌になるの。みぞれのこと、ちゃんと好きやのにね。それと同じくらい、多分──

7位

私にとって夏紀はいい人だから
鎧塚みぞれ

夏紀は・・・夏紀はいい人

中川夏紀

何、突然

鎧塚みぞれ

こうやって私に付き合ってくれる

中川夏紀

べつにいい人じゃないって。みんなが勝手にうちをいい人だって思い込んでるだけ。

中川夏紀

みぞれみたいないい子には、うちが腹のなかで何を考えてるかわからんやろ?

鎧塚みぞれ

それはわからない。でも、夏紀がどう思ってるかは関係ない

中川夏紀

うん?

鎧塚みぞれ

私にとって夏紀はいい人だから。それ以外に何が大事?

6位

そう言ってくれるなら、部活に入った意味があったわ
黄前久美子

夏紀先輩、卒業おめでとうございます

黄前久美子

お別れだと思うと寂しくて

中川夏紀

みぞれとか、話しに行かんでええん?

黄前久美子

いまは夏紀先輩と話したくて

黄前久美子

私が一年生だったときのオーディション、いろいろあったじゃないですか

中川夏紀

あぁ、懐かしいな

黄前久美子

私、あのときに夏紀先輩がシェイクをおごってくれたの、うれしかったんですよ

中川夏紀

大げさやな。大したことしてへんのに

黄前久美子

救われたんですよ、私は夏紀先輩に

黄前久美子

私、感謝してるんです。本当に、夏紀先輩が先輩でよかった

中川夏紀

そう言ってくれるなら、部活に入った意味があったわ

5位

優子は何も言わなかったし、夏紀も何も言わなかった。
吉川優子

いつまでついてくるん

中川夏紀

いつまでって?

吉川優子

うちは一人になりたくてわざわざここに来たんですけど

中川夏紀

ずいぶんピリついてるな

吉川優子

まじでどっか行ってくれへんか

中川夏紀

ほら、座って

吉川優子

アンタのそういうところが死ぬほどムカつく

中川夏紀

手をつないでやろうか

吉川優子

うるさい

中川夏紀

抱き締めてやってもいいで

吉川優子

どっか行って

中川夏紀

あとは何があるかな、膝枕とか

吉川優子

馬鹿にしてるやろ

中川夏紀

べつに。慰めてやろうと思っただけ

吉川優子

慰めてもらうようなことなんてひとつもない

中川夏紀

同意するわ、アンタは全部上手くやってる

吉川優子

じゃあなんで

中川夏紀

さっきも言うたやろ? 嫌がらせやねんから、アンタが嫌がることをしないと

吉川優子

あほらし

中川夏紀

あ、頭をなでてやろうか

吉川優子

いらん

吉川優子

・・・・・・

吉川優子

・・・・・・疲れた

吉川優子

・・・・・・

吉川優子

もう大丈夫

中川夏紀

そっか

泣いてしまえ。 そう口に出してしまえば、優子の涙は自分の前から失われてしまうだろう。

なんせ彼女はひどい天邪鬼だから、優しく甘やかしたところで素直になったりしないのだ。

優子は何も言わなかったし、夏紀も何も言わなかった。

馬鹿みたいに近い距離で寄り添ったまま、二人は互いが生きている気配を感じていた。

4位

涙の条件は
中川夏紀

べつに、寂しいわけじゃない。悲しいわけでもない。ただ、虚しい。

中川夏紀

あれだけ濃密な時間をともにしたというのに、いったい自分に何が残ったというのだろう。

中川夏紀

いつの日か思い出のなかの住民になってしまう。音楽室に集まって同じメンバーで合奏することは、これから先、二度とない。 

熱い何かが頬を伝って、夏紀は反射的に指で拭った。

いまさらかよ、そうつぶやこうとして唇が震えた。 呼吸のリズムが崩れ、夏紀はソファーの上にあったクッションを抱き締める。

涙腺の蛇口が壊れてしまったのか、涙があふれて止まらない。ひどくなる嗚咽をこらえようともせず、夏紀はただ泣き続けた。

涙の条件は一人になることだったのかと、夏紀はようやく思い知った。

3位

ただ、一緒にいたかっただけ
中川夏紀

みぞれはさ、希美のことどう思ってる?

鎧塚みぞれ

友達

中川夏紀

希美のこと好き?

鎧塚みぞれ

好き

中川夏紀

嫌になったりしたことない?

鎧塚みぞれ

ない。でも、希美を好きな自分は嫌いだった

中川夏紀

それって、恋とは何が違うん?

鎧塚みぞれ

そうだったらよかったのに

鎧塚みぞれ

付き合いたいとか結婚したいとか、そういう感情だったら諦めきれたから

中川夏紀

諦めるって何を

鎧塚みぞれ

希美を

鎧塚みぞれ

ただ、一緒にいたかっただけ。でも、それがいちばん難しい。人間は、理由もなく一緒にはいない

2位

いまこの瞬間に希美が笑ってくれるなら、
中川夏紀

うちはさ、希美がやりたいようにやればいいと思う

中川夏紀

希美自身が信じた選択が、多分、いちばん正しい

傘木希美

......ありがとう

いまこの瞬間に希美が笑ってくれるなら、それだけでいいと思った。

そしてそれこそが、夏紀の犯した罪だった。

1位

いくらでも代わりがいるなかで、
吉川優子

この前さ、夏紀が聞いたやん、なんでギターを始めたのって。

吉川優子

それで、個人でできる楽器ならなんでもよかったってうちが答えたら、『代替品がそこらじゅうにあふれてるってワケね』って言うたやん。覚えてる?

中川夏紀

なんでいまその話?

吉川優子

つながってるから

吉川優子

夏紀は自分の代わりが世の中にいることが嫌で嫌で仕方ないみたいやけど、うちはそんなに悪いことやとは思ってへんよ

中川夏紀

べつに、嫌で嫌で仕方ないとは思ってへんけど

吉川優子

いくらでも代わりがいるなかで、うちはアンタを選んでこうやって一緒にいるワケ。

吉川優子

代わりがないからじゃなくて、代わりがいくらあってもアンタを選ぶ。

吉川優子

一緒に音楽やるのも、こうやって過ごすのも、夏紀と一緒がいいよ

中川夏紀

そんな恥ずかしいこと、堂々とよく言えるな

吉川優子

そういう流れだったでしょうが! いま!

中川夏紀

ま、うちだって選ぶならアンタ以外考えられへんな

吉川優子

ソッチのほうが千倍恥ずかしい!

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